第27代住職 大八木正雄

住職閑話

積もる雪と時

十二月を師走と呼ぶのは、先生など学びを授ける人までもが走り回らなくてはならないほど忙しい月だという説があります。年の瀬が迫り、一年の締めくくりと新年の準備とが同時に押し寄せる。街のざわめきも、人の足取りもどこかせわしなく、気持ちばかりが前へ前へと急いでしまう時節です。

こう書き出してみて、いやいや十二月だけではなく、最近の世の中は一年中師走ではないかと思ってしまいました。仕事こそ定年後ゆっくりしたものの、コスパ、タイパに始まり、コンプライアンス、ハラスメント等々、目まぐるしく変わっていく価値観や常識に、あっぷあっぷしながらついて行く私がいます。ごう音をあげながら回転する車輪、止まることの許されない社会──そんな感じでしょうか。

そんな折、「変わり続ける時そのものが、実は気づかぬところで人に寄り添っていることもある」という言葉に出合いました。待つと長く感じる時間も、楽しめば短くなります。焦りの中では敵である時間も、落ち着いた心なら味方にもなります。私が変われば、時間の表情も変わっていく……。分かれの悲しみや失敗の後悔は一夜にして癒えるものではありませんが、時とともに少しずつ和らいでいくこともあります。

このことは、積もる雪に似ています。雪が降り積もるとき、その音は聞こえず、気づかないことがよくあります。朝目覚めれば、一面銀世界になっていて驚く──そんな経験も少なくありません。

雪の一片は小さく、手のひらに乗せればすぐに溶けてしまうほど儚いものです。それが何百万、何千万と重なると、地面を覆い、世界の輪郭すらやわらげ、その表情をすっかり変えてしまいます。この雪の一片は「時の単位」とも言えるでしょう。気づかないところで、ただ刻み続けられる時は、人のこころを徐々に変え、大きな成長を与えてくれることもあります。

時は私を変え、見える景色も変えてゆく。仏教ではこれを諸行無常といいます。あらゆるものは変化し、とどまり続けることはないという教えです。だからこそ、癒えない傷も、越えられない悲しみも、いつか形を変えてゆきます。しかし、その只中にいるときには、とてもすぐに受け入れられないことでもあるでしょう。

それでも、「冬来たりなば、春遠からじ」。
そしてその春もまた、静かに積もった雪のように、気づかぬうちに時がそっと私たちに寄り添っていたことの証といえます。