第27代住職 大八木正雄

住職閑話

音無(おとなし)の滝

京都に不思議な滝の伝説が伝わっています。京都の山深い大原の里は、聲明(しょうみょう:メロディーのついたお経)のふるさとです。

平安時代の終わり頃、そこに良忍上人(りょうにんしょうにん)という聲明の名人がおられ、上人のもとに多くの弟子が集まってきました。上人は、山奥にある滝の前で、いつも聲明の練習をしていました。弟子たちは、上人の練習方法を知りたくて、こっそり後を追い、岩陰に隠れ、様子をうかがいました。上人は滝の前にある小さな岩に腰掛け、周囲にはザーザーと滝の音が響いています。しばらくして上人が聲明を始められると、不思議なことに滝の音が小さくなり、やがて完全に消えて、上人の聲明だけが聞こえるようになりました。この滝は、いつの頃からか「音無(おとなし)の滝」と呼ばれるようになりました。

なぜ滝の音が消えて、上人の聲明の声だけが聞こえてきたのでしょうか?
聲明というお経のメロディーは、もともと風の音や波の音などの自然の音をヒントにして作られました。上人が唱えるその聲明は、自然の滝の音と調和して響いていたのです。ですから弟子たちには、あたかも滝の音が消えて、上人の聲明だけが聞こえてきたように感じたのです。

さて、この上人の聲明と滝の音が調和したという伝説は、大切なことを教えてくれます。調和とは、違うもの同士がうまくかみ合い、一つになることを表す言葉です。言葉を換えれば「心がかよいあうこと」ともいえるでしょう。人間の本当の幸福は、この調和と深く関係があるように思います。ただ、特に人との関係でこの調和を実現することはとても、とても難しいことです。見せかけの調和は世の中にあふれていますが……。

なぜ「心がかよいあうこと」が難しいのでしょうか。
実は人間は、誰でも心のどこかで「自分が正しい」と思ってしまうものなのです。「でも……」とか「だって……」とか、つい言ってしまいます。だから違う考えの人とぎこちなくなったり、時には険悪な雰囲気になったりします。逆に、違う意見に合わせようとすると辛くなります。そこから、対立が生じたり、孤独を感じることもあるのです。

「心がかよいあうこと」のためには、やはり努力が必要でしょう。自分のことはさておき、真剣に相手のことを考えてみることが、大切な一歩のように思います。