第27代住職 大八木正雄

住職閑話

鏡餅

お正月のお寺のお飾りで目を引くのが鏡餅です。拙寺は二段のお餅をお供えしていますが、西本願寺はなんと、五段の立派なお餅がお供えされています。

その鏡餅のルーツは、平安時代以前に遡るようです。当時、日本では稲作を中心とする農耕文化が発展しており、米や餅などの五穀豊穣を祈願するため、神様へのお供えとして作られた神聖な食べ物、それが鏡餅でした。

鏡餅の「鏡」という名称は、古代日本で鏡が神聖なものとされていたことに由来するとされます。鏡は神を呼び寄せる道具とされ、「神が宿る」と信じられていました。このため、円形の餅が鏡に見立てられたのでした。また、上に載せるミカンは、本来は橙(だいだい)でした。橙は、代々(だいだい)の語呂合わせで、家系が代々続くことや子孫繁栄を願う縁起物として用いられてきました。特に、橙は実が長期間落ちずに木に残る特性があり、「家の繁栄が長く続く」という意味も込められていたといわれます。

仏教で鏡餅をお供えする理由ですが、そもそも仏教は中国から日本へ伝わり、日本土着の神道と融合して広がっていきました。その流れの中で、鏡餅も仏さまにお供えされるようになったと思われます。ただその時に、鏡餅の神道的な意味に対して仏教的意味が加味されました。それは、鏡餅が円形であることから、「円満(えんまん)」をあらわしているとしたのです。「円満」とは、仏さまの功徳が、何一つ欠けることなく満ち足りていることをあらわす言葉です。

さて、私達は、他のいのちを懸命にそだて育むことがあります。その対象は様々ですが、子どもであったり、ペットであったり、また盆栽などの植物もあるでしょう。成長する姿を見て喜びを感じることもありますが、試行錯誤の中で、時に苦しみ、時に悲しみを味わうこともあります。どちらかといえば、思うように育てられないのが現実です。何故ならば、育てようとしている相手を完全に理解できていないから、そのようなことが起こってしまうのです。残念ながら、ここに人間の限界があります。

そんな私のことを、完全に理解してくださっているお方、それが仏さまです。「円満」なお心で私をそっと育んでいただいている。そのお心を聞けば、生きるべき道が見えてきます。ただ、耳を傾けなければそのお心は聞こえてきません。お正月にお寺にお参りをされて鏡餅をご覧になれば、年の初めに仏さまの「円満」なお心を拝し、仏さまのお心を聞かせていただくと思っていただければ、誠に有り難く存じます。

本年もよろしくお願いいたします。合掌