第27代住職 大八木正雄

住職閑話

眠り猫

先日、日光へ行く機会があり、世界遺産の東照宮へも寄せていただきました。ご存知のように東照宮は、徳川家康公を神様として祀る神社です。家康・徳川幕府の力を誇示するような豪華絢爛な建物群に圧倒されます。その中、家康公の墓所へ続く長い々々階段(200段?)の入口の上方で参拝者を迎えているのが、左甚五郎作と言われる「眠り猫」です。その眠り猫の上には二匹の雀が遊んでいます。

この「眠り猫」の一般的な解釈は、「猫が眠っていることで雀のような弱者も安心して暮らせる。家康公によって弱肉強食の戦国時代が終わり、平和な世界が訪れたことを示している」ということだそうです。そういえば大河ドラマの「どうする家康」では、弱者の心を大切にする家康の一面が描かれていました。
別の解釈もありました。「眠り猫は実は薄目を開けている」というのです。寝たふりをしていて何かをこっそり見ているのです。少し気持ち悪いですね。墓所を参拝する者の心の中をこっそりと覗いているのでしょうか。この解釈は家康公らしい!

さて、最初の一般的な解釈ですが、強者である猫が眠ることによって、弱者である雀が楽しく遊べるという構図は象徴的な感じを受けます。たとえば人間社会でも、我の強い人が意見を主張すると、周りは萎縮して黙ってしまうことってよくあります。その人がいなくなると、その場が急に明るくなるとか…。そういう人間にはなりたくないものですが、我が強くなくても、一生懸命になればなるほど周りが見えず、そんな落とし穴に落ちてしまうことってありそうです。

この「眠り猫」を仏教的に解釈すれば、こんな風になるでしょうか。
猫は私の心の中にうごめく煩悩です。私の煩悩が眠ってくれていれば、安心して暮らせるのです。ところが、煩悩が起き出すと、途端に危うい生活がやってくるということです。煩悩の代表は、欲しい欲しいと思う心、憎しみ、そしてねたみや嫉妬の心等です。こういった心が眠っていてくれれば穏やかに暮らせるのです。とこるが、これらの心が活動を始めると危うくなってきます。さらに活発に活動してしまうと、取り返しの付かない事態さえ起こしてしまうかも知れません。でも…、これらの煩悩はそうそう眠ってくれそうにありません。残念ながら私の飼っている猫は、絶対眠りません。時に大暴れしてしまうことさえあります。困ったことなのです。本当に困ったことなのです。

でも、不思議なことなのですが、阿弥陀さまが猫を撫でられると、猫は大人しくなってしまうのです。不思議なことなのです。ただ、熟睡はしてくれません…。