第27代住職 大八木正雄

住職閑話

大往生

4月30日のニュース。北海道根室市内の林道で、山菜採りに出かけた人が乗った軽トラックが熊に襲われました。ドライブレコーダーの映像には、車の前から一頭の大きな熊が一直線に向かって来て、体当たりする様子が映っていました。ワイパーが壊れ、フロントガラスにヒビが入るほどの威力です。熊が異常なほど興奮した理由は、近くにいた子熊が襲われると思い、必死に護ろうとしたためでした。
乗車していた人にケガはなく一安心しましたが、同時に、母熊が命懸けで小熊を護ろうとした姿に、少し胸が熱くなりました。それと、何か後ろめたい思いもしました。小熊は母熊に護られて安心し、普段の生活に戻っていったことでしょう。私達、人間の世界で見えなくなりつつある「いのちの絆」を、垣間見せられた出来事でした。

「いのちの絆」それは、そのいのちを、かけがえのないいのちと慈(いつく)しむ眼差しを持っています。そこには、優れているものを大切にし、劣っているものを粗略にするといった分別はありません。

さて、有名な放送作家であり作詞家の故永六輔さん(1933-2016)の著に、『大往生』というベストセラー本があります。その本の最後に、「生まれてきてよかった(略)と思って死ぬことを大往生といいます」という一節がありました。「生きていてよかった」ではなく「生まれてきてよかった」なのです。どちらも同じ「生」を使うよろこびの言葉なのですが、その意味は随分違うように思います。「生きていてよかった」は、普段には決して起こり得ない、とてもいいことが起こった時に使うよろこびの表現です。例えば、一億円の宝くじが当たったというような…。一方「生まれてきてよかった」は、そのような一時的なものではなく、もっと根源的なところから発せられるよろこびの言葉のような気がします。人生の善し悪しには関係なく、生きていることそれ自体に意味や価値があると知らされた、心のとても深いところから出てくるよろこびの言葉です。「いのちの絆」のなかで実感できるよろこびといえるでしょう。

そう、あの母熊が教えてくれた「いのちの絆」から生まれるよろこびを、永六輔さんは大往生と名づけられました。そうしたら、大往生は死ぬ時の事ではなく、いま現在のこととなりますね。

                             正光寺
2024年5月