第27代住職 大八木正雄

住職閑話

「あたりまえ」ちゅうのは「意味に気づけてない」ちゅうことなんや (ガネーシャ)

夢をかなえるゾウ・ガネーシャの二度目の登場です。やっぱりコテコテの関西弁ですので意訳しましょう。「当たり前だと思っている間は、そのことの本当の意味に気付けていない」となります。この言葉も、なかなか深い意味を持っているようです。

先日、寝ぼけて階段を踏み外してしまいました。腰の辺りを打ったらしく少し出血していましたが、幸いに軽いケガですみました。しかし、腰のケガは患部が見えません。お風呂に入るため傷テープを張ろうにも、見えないし手も届かない。しかもやっぱり痛い。家族にたのみ事なきを得たのですが、一人暮らしだったらさぞかし苦労するなと思いました。健康や家族等々、当たり前のようにあるものが大切であったと思った瞬間でした。ただ、残念ながらそれはほぼ瞬間でした。日常の生活の中でその思いは直ぐに霧散し、また当たり前に逆戻り。これって、結構危ういことなのかもしれません。

「当たり前のようにあったものを失って初めてその大切さに気付く」誰しも経験のあることでしょう。それが取り返しが付くものであればまだしも、取り返しが付かないものならば、大きな悲しみ苦しみが襲ってきます。そんな時ガネーシャは言うのです。「意味を思い出すことができるんは失った時や。自分の人生の「意味」を教えてくれるのは傷みや」と。

当たり前が当たり前でなくなった時、人は悲しみ、苦しみます。しかし、その痛みが、人生の意味を教えてくれると言うのです。例えば…、共感ということ。当たり前と思っている時には無い心です。自分の痛みを通して初めて他者の痛みがわかる。この他者との共感。人生の大切な意味の一つではないでしょうか。

「傷みを経た後に顔を上げた時、自分の目にはこれまで気付くことのでけへんかった世界の美しさが映っているはずや。それが、本物の夢なんやで」