おひさの決死的な秘密布教によって、一つの講が坊津の久志に出来ました。浄土真宗の教えを禁じれば禁じる程、隠れて熱心な信仰が続けられ、人目を忍んでは、土蔵や人里離れた一軒家で、密かにお念仏の教えが言い伝えられてゆきました。この人々の集まりを、親鸞聖人御命日の二十八日にちなんで、二十八日講と呼んでいました。また、二十八日講が坊津久志にありましたので、久志二十八日講ともいいます。
この時代、久志では密貿易が盛んで、おもに京都の問屋を取引の相手にしていました。二十八日講の商人達は、京都に来た時、商用のかたわら本願寺に参拝し、必ず正光寺へ立ち寄り、御法話を聞いてから久志へ帰りました。そしてその御法話を、二十八日講の人々に言い伝えていたのです。何時しか、二十八日講から本願寺への献上品を、当寺が取り次ぐようになりました。
明治九年(1876)九月五日、薩摩に信仰の自由が戻った時、此の日の来るのを待ち佗びていた久志二十八講の人々たちは早速説教所を開き、同十五年(1882)十二月には正光寺支坊と名乗る事を許されました。その後、23代住職諦聴は、当寺と親戚寺院であり無住となった京都花屋町西洞院の廣泉寺を再建すべく、二男諦観に命じて、坊津久志の正光寺支坊を廣泉寺と改め、初代住職に就かせました。
図:鹿児島県坊津町久志 広泉寺遠景