西光寺・正光寺の歴史

当寺開基は、関白九條道家公の息男で、今から約800年前の寛元二年(1244)、14才で親鸞聖人(ご帰洛後12年余)の弟子となった圓淳法印であります。建治三年(1277)には洛南九條村に一宇を建立し、後宇多天皇より「西光寺」という勅号を賜わりました。
その後、寺地を京都に置きながら開基圓淳より、覚淳、覚祐、善淳、巧圓、存圓、存賢、賢祐、乗覚、乗従と継承し、本願寺顕如宗主ご治山の時には、祐従が西光寺11代住職を継承していました。

祐従には、祐俊と教性という大変仲が良く、お念仏を大切にする二人の腹違いの子供がいました。この兄弟が西光寺の継承について互いに遠慮し譲り合ったため、本願寺准如宗主は、慶長七年(1602)兄の祐俊にはそのまま西光寺を相続、弟の教誓には新しく寺院を建立し正光寺と名乗るよう思し召しがありました。これより西光寺より引き継がれた正光寺の歴史が始まります。当時の正光寺は、本願寺境内の北御殿の東隣りにありましたが、元和六年(1620)正月には、12代住職教誓の妻の父、本願寺家老の八木蔵人守やぎくらんどのかみより、御影堂門前の土地屋敷を譲られ移転しました。それより旧堀川通り正面の東北角に当寺がありましたが、明治二十九年(1896)の堀川通の拡幅に伴い、現在の地、文覚町へ移転しました。

11代祐従より西光寺・正光寺と二つに分かれてから当寺は、(勝宮殿)西光山正光寺として現在27代目を数え、釋正明(大八木正雄)が住職をしております。

図:宝暦十年 本願寺絵図 御影堂御門前の当寺の場所は現在堀川通りとなっている