霊元院皇子嘉智宮の御乳人として、仙洞御所に昇殿しておりましたおひさ(当寺十三代教従の娘)は、霊元院様の仰せ通り、西国三十三箇所巡拝の大役を果した後、高尾梅ケ畑村の老池庵に身を寄せましたが、何時しか薩摩の国へ布教を志し、海路にて鹿児島県坊津という所に着きました。
薩摩の国は、以前から一向宗(浄土真宗)を厳しく禁じていましたが、「かくれ念仏」といって、人々は人目に付かないよう密かにその信仰を保ち続けていました。おひさは薩摩の国坊津に着いてから、上野という山村にある新左衛門の家に隠れていたそうです。或る日の事、遂に発覚して役人が捕縄片手に乗り込んで来ました。不意を突かれたおひさは、裏の便所から逃れ、久志村の東南四キロばかりの所にある尊牛山の洞窟に逃げ込みました。その後はそこを住居にして、衣、食を持って訪れる村人たちとお念仏を喜びながら、秘密布教に余生を捧げたのであります。
おひさの往生後も、命日と言い伝えられている三月三日には、お墓に灯が点されたそうです。おひさが身を隠した洞窟には今も清水がにじみ出て、この清水がおひさの生命を支えたものと思われます。当寺23代住職諦聴は、明治十三年(1897)にこの洞窟を訪れ、次のように口ずさみました。
古を 思い出して袖なみだ
あわせて手を 岩清水かな
昭和五十六年(1981)七月十九日には、洞窟前に記念碑が建立されました。おひさが、洞窟に入られてからは、「穴ん婆さん」と呼ばれていましたので、記念碑には、「穴ん婆さんの碑」と刻み込まれています。
図:鹿児島県坊津町久志の隠れ念仏洞「穴ん婆さん」